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March 0332001

 終夜潮騒雛は流されつづけゐむ

                           松本 明

語は「雛流し」。雛祭は元来が女の子の息災を祈る行事なので、すべての厄を飾った雛に移して(肩代わりしてもらって)、なるべく早く川や海に流した。三月三日の夕刻には、もう流してしまう地方も多かったと聞く。「捨雛(すてびな)」という感傷を排除した言い方もあるけれど、なんといっても人の形をしたものを流すのだから、たとえ紙の雛でも、流す人には複雑な思いが涌くだろう。考えてみれば、哀しくも残酷な風習だ。作者は夕方に見て戻り、流された雛の哀れが鮮烈に、いつまでも目に焼きついて離れないのだ。「終夜潮騒」が耳につき、熟睡できない。うとうととしかけては、また目覚めてしまう。その目覚めには、流されていった雛たちへの気掛かりが伴う。「流されつづけゐむ」には、作者のそうした気持ちがこもっていると同時に、遠くの暗黒の波間になお「流されつづけ」ている雛の姿を強く想像させる力がある。実際には「さかさまに水ごもりたまふ雛かな」(阿波野青畝)のように、ほとんど流れることもなく沈んでしまっているのかもしれない。「捨雛のうちふせありぬ草の上」(二宮英子)のように、早々に岸辺に打ち上げられてしまっている雛もあるだろう。しかし、そうは思いたくないというのが、人情だ。作者の詠んだ雛たちは、きっとどこまでもどこまでも流れていったことだろう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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